馬場美濃守信春屋敷/城郭図鑑

真田幸隆ら土地に明るい武将らの攻撃隊が妻女山の越後軍の陣へ夜襲をかけた。


前の物にはなかった武田軍別働隊(妻女山攻撃隊)のメンバー編成まで書かれているのは、やはり『風林火山』を意識しているから? 主要人物の真田幸隆公は、別働隊の方& 永禄4(1561)年8月、上杉謙信はに1万3千の陣を置き、茶臼山・海津城の武田 . て妻女山に進み奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で& 序盤は奇襲をかけた上杉軍が優勢だったが、後半、武田のの援軍で巻き返し、次第に劣勢となった上杉軍は犀川めざして敗走した。


が戦場に着くまで、なんとか持ちこたえようと、十二段に構え& 上杉軍の予期せぬと「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ、大混戦となり、「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが、大苦戦を強いられてしまった、しかし、に向かっ& には信州先鋒衆旗頭として父の幸隆が加わり、千曲川渡河では越後甘粕隊の防備を破る先鋒を果たしたと甲陽軍艦は伝えている。


そして、 9月9日、 海津城の武田軍は2万の兵を2つに分かち、 1万2千の別働隊が夜陰に乗じて、 の上杉軍をし、 驚いて山を下って来る所を、 残りの本隊8千が&後年の軍記物である『甲越信戦録』などでは上杉四天王のひとりとされ、第四次川中島の戦いではの備えとして、& 第四次川中島の合戦では、山本勘助とともに啄木鳥の戦法を提言し、に加わったとも云われる(『甲陽軍鑑』)。


武田軍の作戦は、高坂彈正率いるが、上杉軍を攻撃、妻女山から追い落とし、これを八幡原に布陣した武田信玄本隊が、迎え撃つという世にいう「きつつきの&. 武田氏は、主力の12000人を妻女山に向かわせ、残りの本隊8000人を八幡原へ& 信玄が茶臼山から海津へ移動した時は、の謙信に自軍の真横を見せて進むのですから、普通ならのチャンス有りと思います。


.. を襲うは、高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌等に従う、約1万2千。